【庄内町】亀ノ尾の里資料館 第104回 企画展 草莽の志士「清河八郎の軌跡」

 庄内町亀ノ尾の里資料館では令和5年12月16日から令和6年2月12日まで【第104回 企画展 草莽の志士「清河八郎の軌跡」】が開催されています。

亀ノ尾の里資料館
「亀ノ尾の里資料館で配布されているチラシ・販売されてる展示資料解説」

本企画展では清河八郎が中心となって浪士組(のちの新徴組)を結成するまでの軌跡を展示品を通して知ることができます。

展示室A

 展示室Aでは無礼切りにより幕府から追われる身となった清河八郎が逃亡中にまとめた建白書、大赦から浪士組の結成、暗殺に至るまでの過程を、八郎が残した記録や父・齋藤治兵衛に宛てた書簡などを通して知ることができます。

注目の展示品・遺芳萬年

 清河八郎暗殺前日に父・齋藤治兵衛宛に送られた書簡。この後に清河八郎の身に降りかかること、遠からず戦さ(戊辰戦争)になるだろうということを予見していたと思われます。この前に松山文化伝承館にて開催されている企画展「ダ・ヴィンチか?ダーウィンか?いいや、松森胤保と申します!」を見学。担当の方から胤保が戊辰戦争を戦っている際に、どのようなことを考えていたかを伺ったのですが、その先見性に驚いたところでした。幕末に学問・剣術を志していた人たちには、先を見据えた視点があったのではないかと気づきました。
 また八郎暗殺直前に会っていた上山藩の金子与三郎と松森胤保は、共に薩摩藩邸焼き討ち事件に参加。この戦いで与三郎は命を落とします。八郎と胤保は直接の接点はないようですが、与三郎の視点に立つと何かつながりが見えてこないかなと思いました。

展示室B

 展示室Bでは浪士組が新徴組と改名の上で庄内藩預かりとなって再出発、薩摩藩邸焼き討ち事件後、庄内藩に編成されて戊辰戦争で活躍するまでの過程を学ぶことができます。

注目の展示品・根岸友山関係の資料

 文久元[1861]年に清河八郎から根岸友山へ送った書状では、前年(万延元[1860]年)に清河八郎が根岸友山邸に泊まった際のお礼が記されています。
 友山は武蔵国大里郡甲山村(埼玉県熊谷市)の豪農に生まれ、八郎と同じ北辰一刀流の千葉周作に剣術を学びました。 また文武両道の清河塾を開いた八郎同様、剣術道場や寺子屋を開いた友山。
 清河八郎(天保元[1830]年生まれ)根岸友山(文化六[1809]年生まれ)年の差21歳のふたりの間でどのようなやり取りがあったのか興味深いなと感じました。
 友山邸で滞在の後に八郎は北辰一刀流の中目録免許を授かっているが、この書状が送られた後、無礼斬りによって追われる身となってしまいます。そして2年後に八郎から友山に送られた書状では、浪士組募集に際して、友山へ有志の斡旋を依頼する八郎。友山は門弟・食客・知己と共に浪士組に参加して京都に向かいます。浪士組が分裂した後も京都で活動しますが、意見が合わず江戸に戻って今度は新徴組に加入しました。しかし脱退して郷里に戻り、村政に力を注ぎます。明治23(1890)年12月3日に没す。
 もし時代が違っていたら…それぞれの場所で互いに剣術や学問を広める師として活躍していたのでがないか…と思いを巡らしました。埼玉県熊谷市の根岸家長屋門に建てられた金子兜太の句碑「草莽の臣 友山に 春筑波嶺」の句がふと頭によぎりました。

参考資料

草莽の志士 清河八郎の軌跡 展示資料 庄内町亀ノ尾の里資料館 発行
郷土の偉才 松森胤保 松森胤保翁顕彰会 発行

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