【おこもり東京】東大島から門前仲町へ 産業立国・日本発祥の地をめぐる1泊2日の街歩き
今回は都営新宿線の東大島駅から門前仲町駅まで、江東区内を1泊2日でめぐる街歩きに出かけました。テーマは「明治から現在に繋がる産業立国・日本の足跡」をめぐること。
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小名木川を歩く
都営地下鉄新宿線の東大島駅前から都営バス錦28系統に乗車します。大島小松川公園や中川船番所資料館の近くを通って、番所橋で小名木川を渡りました。次の交差点を右へ。この辺りは都営アパート等住宅が集まるエリアのようです。
我国製糖発祥之地
バスを降りたのは、北砂五丁目団地。周りにはコンビニと団地、道路を挟んで向かい側に第四砂町中学校、亀高保育園、亀高小学校が並んでいます。木々が木陰を作って涼し気な団地広場の一角。ここで出会ったのが「我國精製糖発祥之地(精製糖工業発祥の地)」。
そばに設置された案内板によると、静岡県森町で氷砂糖を製造していた鈴木藤三郎さんは、明治22(1889)年この地へ鈴木製糖所を移転。上白糖(じょうはくとう)の製造に挑みます。その結果、明治23(1890)年日本で初めて製造に成功。明治25年(1892)から本格的に精製糖の製造を始めました。
また、明治28(1895)年に日本初の精糖会社「日本精製糖株式会社」を設立、さらに事業を拡大して、日本統治下にあった台湾へも進出しました。その場所が、現在の雲林県虎尾鎮。今もサトウキビ列車が走る虎尾糖廠(台糖虎尾製糖工場)でした。
鈴木藤三郎さんは台湾製糖株式会社の初代社長にも就任、台湾最初の機械的製糖工場「橋仔頭糖廠」の建設に尽力されました。こちらは現在の高雄市橋頭區に残る、「台湾糖業博物館」が正にその場所。そして今…きっと工場の跡地だから、これだけの敷地を確保した団地を建設することができたのでしょうね。
小名木川貨物駅跡
次のバスが来るまで少し時間があるので歩くことに。やって来た明治通りとの交差点の名前は「小名木川駅前」となっているのですが、駅など見当たりません。この場所には昔、貨物駅がありました。
総武本線小岩駅から分岐する貨物線の駅として、昭和4(1929)年に開業した「小名木川貨物駅」。14,000㎡のドッグを備えた水陸連絡貨物線専用駅で、近くを流れる小名木川の水運と陸運(鉄道)の連絡ポイントとして活躍します。しかしモータリゼーションによって取扱量が減少した為、平成12(2000)年に廃止。平成22(2010)年その跡地に複合商業施設・アリオ北砂がオープンしました。貨物駅の面影を探して周辺をウロウロ。辛うじて見つけたモノを撮影します。
慰霊碑
昭和20年3月10日の東京大空襲で殉職された小名木川駅関係者を慰霊する碑。
江東区北砂二丁目公園
貨物線で実際に使用されていた車輪が展示されている「江東区北砂二丁目公園」。
南砂線路公園
こちらは線路跡を利用して、貨物線を走行する列車を間近に見学することができる「南砂線路公園」です。現在、越中島貨物駅と新小岩操駅の区間を一日三往復運行されているそうです。
仙台堀川を歩く
旅の二日目は、錦糸町駅から東京メトロ半蔵門線に乗車して清澄白河駅で下車。清澄庭園のそばを通って、仙台堀川にかかる海辺橋の手前で右へ曲がりました。
深川図書館
やって来たのは江東区立深川図書館です。
館内2階にある「郷土資料室」にお邪魔して、前日に訪ねた「精製糖工業発祥の地」碑を建てた「日本精製糖株式会社」について蔵書を調べました。
本邦セメント工業発祥之地
深川図書館から仙台堀川にかかる清川橋を見てさらに先へ。出会ったのは「本邦セメント工業発祥之地」です。
渋沢栄一宅跡
先ほど見た清川橋を渡って、仙台堀川と分かれた大島川西支川に沿ってブラブラ歩きました。この辺り、会社が多く集まっているエリアのようです。永代通りまでやって来ると、案内板が目に入りました。ここは「渋沢栄一宅跡」とのこと。
深川東京モダン館
渋沢栄一宅跡から首都高速9号深川線の高架に向かって歩きます。見えてきたのが「深川東京モダン館」。この建物は、昭和7(1932)年に東京市営の食堂「東京市深川食堂」として建てられました。
幾多の変遷を経て平成18(2006)に閉館後、震災復興建築物として国の登録有形文化財建造物に登録されたのを機に「深川東京モダン館」としてリニューアルオープンしたそうです。
丸窓がとてもモダンな雰囲気を醸し出していますね。ここから清澄通りへ出ると門前仲町駅に到着です。
この街歩きに便利なサイト
〇江東区観光協会
https://koto-kanko.jp/
https://twitter.com/kotokanko
https://www.instagram.com/koto_tourism/