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【酒田市】松山文化伝承館 酒井家松山入部から現在に繋がる地域の歴史と文化を未来に伝える

 今回訪ねたのは山形県酒田市松山地域にある「松山文化伝承館」さんです。

松山文化伝承館について

 里仁館高校が移転した跡地に整備された松山歴公園。この敷地内に建設されたのが松山文化伝承館さんです。

第一展示室と第二展示室がある本館が昭和57年5月1日に開館、平成10年11月7日にロビーや事務室、企画展示室、真下慶治記念室がある新館が開館しました。

第一展示室

 調査員の方に館内をご紹介いただきながら、松山藩の歴史など教えていただきます。
まず第一展示室へ入る前に掲げられている松山町(現在の酒田市松山地域)の略年表で地域の歴史について概要をサッと教わりました。
 第一展示室のテーマは「松山の歴史と文化 藩政時代の松山」です。まず目につくのが、松山藩酒井家に伝わる武具甲冑や馬具。酒井家は代々文芸にも励まれたそうで、掛け軸の書や絵が残っています。この時は松山藩八代藩主・酒井忠匡(ただまさ)の書や四代藩主・酒井忠崇(ただたか)の鶏図を鑑賞することができました。
 能楽や絵画の他、俳句を嗜む藩主も多く、句会が度々開かれたことからも推察できます。部屋の真ん中にあるケースには、中山神社に奉納された俳額も展示されていました。

酒井家系譜

 まず最初に酒井家系譜から解説いただきました。酒井家は庄内藩の鶴岡・酒田(本家:藩祖 酒井忠勝)の他、松山と余目、左沢に分家がありました。この内、余目は世継ぎが生まれず四代で終わり、領地は幕府の天領になりました。また左沢藩も酒井直次の後に世継ぎがなく、一代で改易となって領地は天領となりました。
 松山藩は忠勝の三男・忠恒へ分封が幕府に認められたことにより成立、以後明治維新まで八代の藩主によって治められました。

家紋について

 庄内藩酒井家の家門は〇に片喰(カタバミ)、松山藩酒井家の家紋は□に片喰(カタバミ)です。ちなみに姫路藩酒井雅楽頭家は剣片喰(ツルギカタバミ)です。  

庄内藩の統治について

 庄内藩は現在の鶴岡市に鶴ケ岡城、酒田に亀ヶ崎城がありました。松山藩では縁起を担いで、中山村を松山と旧田所村を竹田と改名したそうです。
 また三代酒井忠休公が若年寄など要職を務めた功績で、松山城の築城を許されました。徳川幕府が始まってから築城が許されるのは異例のことだそうです。江戸時代・安永年間に描かれた城下の絵図からは、松山の町並みを窺い知ることができます。

 鳳凰橋の擬宝珠や大手門の屋根にのっていた青銅製の鯱を見ながら、当時の松山城の様子を想像してみては。

松山藩の参勤交代について

 松山藩の参勤交代時は【松山…(徒歩)…清川~~~(船に乗船)~~~清水…江戸】というルートでした。松山~清川の距離が短かったので、ほとんど清川では宿泊しなかったようです。
 ただし、松山町史には国元へ戻る際「暗くなったので、一泊しよう。」という殿の一声で清川に一泊したというエピソードが残っています。

戊辰戦争と松山藩

 松山藩は庄内藩と一緒に戊辰戦争を戦い、上山から新庄、秋田へと転戦してゆきました。その際に活躍したのが、松山藩の軍務総裁で松山藩一番隊隊長と庄内藩一番大隊参謀を兼任したで長坂欣之助(後の松森胤保)です。後に胤保は戊辰戦争について詳細に綴った「北征雑記」「北征記事」を書き残しています。
酒井玄蕃の兜「大圓山星兜(だいえんざんほしかぶと)」や朱丸で四隅の一角が水色に染まっている「松山藩の旗印」も必見です。

第二展示室

 郷土出身の偉人を紹介する第二展示室。哲学者・阿部次郎のコーナーでは、三太郎の日記の直筆原稿や書簡などが展示されています。他に医師・門山周智、服飾デザイナー・原のぶ子 マリモも命名した植物学者・川上瀧彌を紹介。

企画展示室

 2023年12月8日から2024年2月4日まで企画展示『ダ・ヴィンチか?ダーウィンか??いいや!松森胤保と申します!』が開催されています。

真下慶治記念室

 四季折々の最上川を描き続けた「真下慶治」の作品を鑑賞。定期的に入替も行われており、何度となく足を運んでいます。ここに来るまでに通ってきた国道47号線や375号線沿いから眺めることができる最上川の景色も描かれており、作品鑑賞後に足を運んでみるのもいいかと思います。
 真下慶治さんの作品「最上川」をテーマは、清川から見た最上川×酒田、酒田から見た最上川×清川を描いた作品が多く、清川の人が見ても、見たことがある景色を描いだ作品が多いです。

松山文化伝承館の基本情報

松山文化伝承館
住所:山形県酒田市新屋敷36−2
http://matuyama-net.com/rekishikoen/denshokan/

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