2018年は「明治維新150年」と銘打って、主に九州・中国地方から関東にかけてイベントが行われました。一方、新潟県から東北地方では、「戊辰150年」と書かれたポスターやのぼり旗を目にし、新潟や会津若松、仙台の博物館では、巡回企画展を開催。その対応の差の理由を知るべく、いくつかの文献を読んでみました。その結果、これまで学んだ歴史では教えられなかった、ある事実を知り私は愕然としました。
朝敵とみなされ、戊辰戦争に敗北した会津藩。白虎隊の悲劇などドラマ化され、何度となく目にしたのですが、知らなかったのは「戦後」私はこれまで元会津藩士達は、戦いの後も会津の地で過ごされてきたと思っていました。が、明治新政府は、会津藩廃藩後、多くの藩士とその家族達を、青森県下北半島や十和田湖東部に移住させていたのです。1869年に家名再興を許され、1870年に新しく立藩された斗南藩は、わずか3万石でスタート。しかも、藩内の痩せた土地での農業は苦労の連続で、多く人々がひもじい思いをされたそうです。今回はその斗南藩の中心だった、青森県むつ市を訪ねました。
Table of Contents
斗南藩の藩庁が置かれた円通寺
JR大湊線の下北駅で下車後、駅のすぐ側にある観光案内所で情報収集。ここで旅の案内人になってくれた貴重なパンフレット「斗南藩 ゆかりの地を巡る(むつ市発行)」と下北交通時刻表をいただきました。また、ここから一番近い「柴五郎一家居住跡」まで、徒歩で約20分とのこと。
駅前バス乗り場を12時50分に出発する、むつ・佐井線の路線バスに乗車しました。郵便局前で下車して、すぐそばの交差点を渡り暫く歩くと、最初の目的地・円通寺に到着。案内板によると、ここは斗南藩藩庁が置かれた場所。また、後に斗南藩校日新館がここに開かれます。真新しい本堂を外から見学。
すぐ近くにある招魂碑には、戊辰戦争後三十三回忌迎えるにあたり、奮闘虚しく命を落とした人々の思い後世に伝えるべく、碑文が刻まれています。
斗南藩重臣会議の場所になった徳玄寺
続いて訪れたのは、すぐ近くにある「徳玄寺」案内板によると、斗南藩の重臣会議や藩主容大公の食事や遊びの際に利用されたそうです。
斗南藩で街づくりが行われた斗南ヶ丘
むつバスターミナル13時50分に出発する尻屋線の路線バスに乗車。斗南岡バス停で降りると、すぐそばにあるのが「斗南ヶ丘市街地跡」
案内板によると、明治三年、この丘陵地に斗南藩は、一戸建約三十棟、二戸建約八十棟を建設したそうです。今ここに残るのは、昭和十一年に、秩父宮両殿下が御巡遊でこの地を訪れたことを記念して建立された石碑。
斗南藩墳墓の地
斗南ヶ丘市街地跡から県道6号線を最花方面へ10分ほど歩くと、下り坂になります。その下り始めの場所に「斗南藩墳墓の地」へ入口示す看板が目に入りました。根雪が残る山道をズンズン進むと、斗南藩追悼之碑を始め墓碑が静かに並んでいます。
案内板の文章の中で、開拓に夢を託した藩士達ではありましたが、志半ばにして命を失った者やこの地を去る者が続出するほど過酷な土地だったことがうかがい知りました。
柴五郎一家居住跡
むつバスターミナルへ戻ってタクシーに乗車。10分ほど走った、むつ運動公園のそばで停めてもらいました。足がズッポリ埋まるほど積もった雪道を歩いて行くと、呑香稲荷神社の鳥居が見えてきました。
ここには後に陸軍大将・柴五郎一家が仮住まいしていた場所。静まり返った山中、ふと心細くなります。会津を離れて、この地で生活をした柴五郎一家の人々の苦難に触れたように感じました。
斗南藩士上陸の地
ふたたびタクシーに乗車して、大湊方面へ向かいます。JR大湊線の線路を渡って、集落を抜けると、陸奥湾が見えてきました。「斗南藩士上陸の地」は、会津を離れ新潟から海路やって来た藩士達が上陸した場所。
鶴ヶ城の石垣と同じ石材で作られた石碑が建っています。会津の人々は、目の前に広がる陸奥湾を猪苗代湖、奥にそびえる釜臥山を磐梯山と思い、故郷を偲ばれたそうです。
この場に立って夕陽を眺め、色々な思いを胸にこの旅を締めくくりたいと思います。
ブログご覧いただきありがとうございました。よければ、ポチッと一票お願い致します!!
にほんブログ村